1/21 殺人犯はそこにいる 完読

ダブルカバーの文庫で、カバーにおどろおどろしい感じの文字で、「タイトルを隠して、この本を読んで欲しい旨」をつらつら書いてあるのが気になって手にした。内側のカバーのあらすじを読んで、実際にあった幼女連続誘拐殺人事件のルポルタージュとわかり、先日読んだ川崎の少年殺人事件のルポにも感じるものがあったので、購入。

結論から言うと、ネットで調べてみると未だ解決されていない事件で、犯人は今なお普通に暮らしていると言う状況や、被害者遺族達の悲痛な真相解明の要望に対しての、日本の警察、検察、裁判の態度や制度に対して腹立たしさがどんどん募っていく本であり大いに考えさせられた。
1990年に起きた足利市での幼女誘拐殺人事件で、容疑者が上がり、自供およびDNA型判定で犯人のものと一致したため、懲役刑となったが、冤罪ということがわかり、十数年の刑務所暮らしの後、釈放、のちの裁判で無罪確定となった、いわゆる足利事件
これだけにスポットを当ててみると、自供に至るまでの警察、検察の態度、DNA型判定のいい加減な結果等々お役所の強権的な、権威的な対応が如何に腹立たしいものであるかが良くわかった。しかも、真犯人は時効だから探そうともしない。何だそれは?という感じ。
一時が万事では無いだろうが、1件でもこの様なことがあれば不信は拭い去れないものがある。
実はこの事件はこれだけでなく、実はこの前後に1974年に発生した足利市での幼女誘拐殺人事件から1996年群馬県で発生した幼女行方不明事件まで、栃木県と群馬県の県境10キロ圏内で5件も幼女誘拐殺人事件(最後のもののみまだ行方不明のまま)が起きている。この中の足利事件前に足利市で起きた他の2件の事件は同一犯と見ていたため捜査も停滞していて、結果、時効で、いまだに真相がわかっていない。
それだけではなく、DNA型判定はいい加減なものであったことが解ったのだが、それを正そうともせず、再調査の依頼についても、何を隠しているのかわからないが、証拠品を廃棄しただとか、返却はできないとか調べようともせず、また調べられないようにしている。DNA型が証拠になった別の事件では証拠の資料を捏造までしている、そんな状況なのである。
作者である清水さんはこれら5件は同一犯と断定して、犯人としてある人物に目星を付けており、その事を警察庁のお偉いさんに話しているのだが、警視庁は捕まえようとも、調査しようともしないそうだ。DNA型の結果次第で、過去、それが証拠となって有罪となった者、死刑になった者が居るので、それが間違いだったと言えないがために、明るみに出せないために、調べない、耳を貸さない、捏造する等々、保身をしているのだろう。絶対におかしい。
これらの人達は、被害者やその遺族の方々の気持ちを考えたことがあるのだろうか。何様のつもりなんだろう。いかなる事情があるにせよ腹立たしくてしょうがない。
加えて、真犯人は何のお咎めもなくのほほんと過ごしている、幼い命を五人も奪い、その遺族にも一生残る憤りを植え付け、他人に罪を被らせて、今尚である。遺族の方々からすれば殺しても殺したりない真犯人が普通に暮らしているのだ。これも腹が立ってしょうがない。
作者の清水さんが根強い調査取材をしていなかったら冤罪も明るみに出なかったし、犯人の目星がついているのに何もしない司法組織があることも明るみに出ていなかったのではないのか。事件そのものはもっとも痛ましくあってはならないのだが、警察組織、法律、行政、マスコミの在り方が腐っている。
川崎の少年殺人の時も書いてあったが、犯人は刑務所に入って、市民の税金を使って、最低限だろうけど衣食住は確保され、教育も受けられ、出所後の人権も守られるのに、殺された被害者はそれこそその時から何もできないし、被害者遺族の方々には、心のケアも含め、何の対応もしないし保証もない。なんか制度が大きく間違っていると声を大にして言いたい。

1/14 風神の手 完読

作者の名前が「道尾さん」と故郷尾道の名前に似ていたという事だけで購入。背表紙でも4つの物語が最後に集約するって書いてあったのでどの程度のものかも知りたくなったのもの購入理由の一つ。それぞれの章の題名が、「心中花」「口笛鳥」「無常風(つねなきかぜ)」「待宵月(まつよいのつき)」と何となくおしゃれな所も気を引いた理由。

結果、大変面白かった。
「心中花」は、なんかノスタルジックな切なさを帯びた、女子高生の恋愛話、「口笛鳥」は小学生の冒険譚、「無常風」は会社絡みの犯罪の事件解決までの探偵物話、「待宵月」はエピローグ、と3章まではそれぞれの章で完結すればできる、短編の様ではあるが、西取川での火振漁という鮎漁の有名な街の中で、遺影専門の写真館を中心に、3世代に渡る物語で繋がっている。どの章も建設業者が川に消石灰を流すという事故又は犯罪に絡んでいるのだが、それぞれが別の事件で起承転結していながらも、ミステリー性を帯びており、3章目の「無常風」で全てが明確になっていく。その上で、犯罪があり、事件も起きるのだが、警察や刑事や探偵が出てくる捕物帳ではなく、加害者を糾弾するでもなく、関わった人たちがなぜかホンワリした物で包まれていく感じの小説であった。良きにしろ悪しきにせよ、全ての現象が今に繋がっている事を伝えたかったのだろう。
最後まで読んで解せないのが、題名。何で「風神の手」なんだろう。小説内に「風はどこからふいてくるのだろうか」という疑問が投げられており、今の状況が過去からの風によって成り立っている奇跡の様なものだから、なのだろうか。
解説読んで初めて気づいたのだが、各章の題名の語尾を繋げると、花鳥風月になっている。各章の題名がおしゃれだったというのは、この隠しアイテムがあったからかも。でも最後まで気づかなかったのは悔しい。

大人になったなと感じるとき

既に還暦に近い自分であるが、大人になったなと感じた事は一度も無し。

学業を卒して後、親元を離れて、都会で暮らし、結婚もし、子供もでき、子供の成長も見届け、仕事もあと数年で全うできる現状、今だにである。
大人とはなんぞやと聞かれたら、自分で生計を立ててる人って外面では答えているが、自分自身の中では、論語、為政にある、「我十有五〜」の中の
七十而従心所欲不」の状態が大人だと、学生のころ思い込んでしまったらからだろうか。
と言って、大人じゃないから無責任になっている訳では無いので、あしからず。

1/10 43回の殺意 完読

川崎が舞台だったので購入。数ページ読んだところで、5年前の実際にあった事件のルポだと言うことに気づいた。その当時、少しは衝撃だったが、すっかり忘れいた事件。今、読み返してみると、衝撃どころでなく、物凄く考えさせられた。

中一の少年が、仲間だと思っていた先輩達に、殺害された、しかもカッターナイフで43回も切られて、その間、2度も2月の極寒の多摩川で泳がせて、何回か護岸壁に頭をぶつけられて、その後加害者の先輩達がいなくなった後もまだ息があり、2〜30メートル程、這って行って事切れているのだ。
この痛ましい事件のルポで、おそらく事実であろう状況を説明した上で、被害者と加害者の家庭環境や、それぞれの立場の思いなどが記されている本。
被害者の父親が最後にインタビューに答えた内容は、涙を流しながら読んだ。喫茶店で。
犯人は少年であれ、自分の息子を殺したのである。その犯人は、実刑となって、刑務所で税金を使って、3食食べられ、かなり厳しい制約はあるにせよ、普通に過ごせており、少年という事で、将来に向けての教育やら保護やらが約束されている反面、被害者自身は生きる事も許されず、その家族においては、何の補償もないまま、ただ息子が居なくなり、その寂しさ、悔しさ、怒りをどこにもぶつけられない状況で一生を過ごさなければならない。日本の司法制度は本当にこれで良いのかと本気で思ってしまった。
被害者、加害者両者とも、家庭環境に問題ありと一言では済まされない重いものがあると思う。
この事件の予備軍は、何処にでもある様な気がする。
被害者の父親の発言で、誰が悪いのではない、ただただ自分の息子に運がなかっただけだ、とあったが、そこに行き着くには、相当の苦悩をした事だろうと思う。その苦悩は想像を絶するものだと思う。
罪の声では、加害者の身内の苦悩を教えられたけど、当たり前だけど、被害者の身内の苦悩は計り知れない物があると思う。
加害者の刑の軽かった人は早くて今年出所となる様である。

1/7 尾道茶寮 夜咄堂 完読

コロナ禍の中、故郷である尾道に帰省した折、見つけた本。尾道が舞台になっているので気になって購入。ぱっと見、何となくゆるい感じがしたが、さほど期待もせず読み始めた。

茶寮、抹茶とか茶席で出す様な喫茶店、を経営していた父親が亡くなって、そこを処分しようとした大学生である息子の成長の話。
突然、付喪神(つくもがみ)が擬人化されで登場し、彼らを通じてさまざまな経験を積んでいくのだが、茶道の言葉とか作法とか出てきてとっつきにくいなぁと思いながら読んでいったのだが、最後の章では、ファーストキッチンでコーヒー飲みながら、思いっきり涙を流して読んでいた。嗚咽を堪えるのがしんどかった。それぐらい心に触れた小説であった。読んでいて、鉄道員(ぽっぽや)を思い出していた。ぽっぽやも電車の中で読んでいて、泣くのを堪えるのが辛かった記憶がある。
付喪神って物の神様らしく、百年以上使い続けると現れるとか。その神様達の純粋で健気である様を読んでいると、あらゆる物を大切にしなければならないなぁと思ったりした。また、茶道を通しての成長なので当然茶道が何たるものかを書いてあり、少し茶道に興味を持ってしまった。客をもてなすとは、どういう事なのかとか何となくわかった気がする。
この本、芝居でできるかもなんても思った。
私としてはオーラスは蛇足だったのではなかろうかと感じたが、その前に大きな感動があったので、まぁいいか。

12/30 99%の誘拐 完読

物凄く展開の早い誘拐物。第1章で一つの誘拐事件が起こり、犯人は捕まらないまま迷宮入りとなる完全犯罪で幕を閉じてしまう。それを、誘拐された少年の父親が死ぬ間際に息子宛に綴った手紙を中心に書いてあり、それだけでも、凄いと思って読んでいった。2章以降は、その十何年後の話しで同じ様な誘拐事件を記しているのだが、初めから犯人がわかっている形式で進められていき、その手口が当時のハイテクを使ったもので、物凄く面白い。

身代金を運ぶ所は、西に行ったり、北に行ったりいろんな所を行ったり来たりして紀行の様で読みやすかった。
ここ2、3作は、前半と後半で違う犯罪が起こって、最後に両者が絡んでいる事がわかる形式の本ばかりである。流行っているのか偶然なのか。
ふと題名を見ると、99%ってなっているけど、両者とも、完全な誘拐だったのに何で1%足りないんだろう。世間的には完全犯罪だけど、知っている人がいる、という事で1%なのだろうか。

12/26 あの日、君は何をした 完読

2部構成になっていて、前半は少年が警察に追われ事故死をしてしまい、その母親の心情が綴られており、後半はその15年後、全く別の女性が殺され、その重要参考人である男の母親と妻の心情が綴られながらその犯人を追っていく展開。前半後半、全く接点がなく進んで行くのだが、後半の後半ぐらいから、1人の刑事を中心に両者が少しづつつながって行き、後半の事件の犯人や、前半の少年がなぜ警察に追われる羽目になったのかなど、全てがつながって明確になっていく。お見事。

先を知りたくなり、ツルツル読める本。
息子を亡くした母や、行方不明になった息子の母の心情と変貌は凄まじいものがあり、ゾッとするのだが、非難できない何かがそこにはあり、きれいごとの世界だけでは無いと感じてしまった。
これは、先日読んだ殺戮の病でも同じ様に感じた。親が子を思う気持ちの雰囲気はなんか似ていた。