4/4 雲上雲下 完読

題名に惹かれて購入。

結論から言うと面白かった。これも舞台にできないかななんて思ったりした。

CPだのAIだの、デジタル庁だのと、数字的、科学的、論理的な事が重要視されるなか、忘れ去られつつある御伽噺達の物語。

オリジナルな内容で数多ある御伽噺をアレンジして、崩壊していく御伽噺の世界を、「草どん」と言う得体の知れない植物を中心に小狐と山姥の会話を主に描かれている。

急に御伽噺になったり、3人の世界に戻ったり、加えて、御伽噺の言葉や漢字、昔は普通に使っていたのかも知れないが、を使っているので、わかりにくいところもあるが、それもまた面白い。これなんて読むんだっけと何度ページをめくったことか。浦島あり傘地蔵あり龍の子ありおむすびコロリンあり天野羽衣あり、天の川あり、どんな話だったっけと懐古したりもした。

草どんが本人の自覚もなく、なぜかさまざまな物語を語ることができ、それをサポートする様に、小狐、山姥が相の手を入れていき、そこに「風」なんかのアドバイスがあったりして、自分たちの世界が崩れていく最中に、草どんが色々思い出して、自分の正体を知り、己の愚かさを知り、何が必要なのかを再確認していって、新たな御伽噺の世界が芽生えていく。そんな感じ。解説風に言うと、一つの文化、文明の盛衰と再出発を感じさせる内容。

中でも引っかかった言葉は、「安穏な生活は衰退するのに等しい」と言う言葉。最近は、騙したり、いじめたり、成敗したり、悪の行く末がほっとかれたり、泣いたり、悲しんだり、ハッピーエンドでなかったり、そんな描写は教育上よろしく無いとかで敬遠されているけど、この様なことが無くなった方が、まさしく衰退すると確かに思う。

大団円は自分でも胸がすいて心地よいが、え、何で?と腑に落ちない終わり方も確かに必要だと思う。そこから、観る側は考える事ができるから。

御伽噺は同じ題名でも地方とか、各々の家族毎に異なる物、何となれば、語り継がれるものだからなのだが、最近では、書物化、映像化、メディア化で統一され、面白さが無くなってきている様な気がする。自画自賛なのだが、自分の子供に聞かせた桃太郎は何通りもあった記憶がある。ストーリー性も無く、全く辻褄の合わない物であったが。

御伽噺では無いが、ジョジョの奇妙な冒険、オーシャンストーンで出たスタンド、ボヘミアンラプソディーもアニメや童話の登場人物を使ったものだったが、一瞬思い出してしまった。

もう一つ、山姥の問いで、「なぜ神は人と戦わないのか」に対して、草どんの答え、「神も知っているのだ、人によって存在している事を」。なんとじぶんの考えにあった言葉だろうか。鶏が先か卵が先かと、同じように、神か人を創ったのか、人が神を創造したのかの真実は誰も解らないが、自分としては後者だと考えている。ただ、神は不要かと問われたら、否で、どうしても苦しみから悲しみから逃れられない時、すがるもの、相談するものが何もない、本当にどうしようもなくなった時、神が創造されるものだと思う。以前は、不要と思っていたが、昨年読んだ「弥勒」で考えが変わった。

雲上雲下、神の世界と人々の世界と言う意味だと思うが、この二つの世界を結ぶ者、この本では草どんなのだが、子供に物語を話し聞かせている人全てが草どんなんだろう。